2006年04月30日

大切なもの

scard case 0426.jpg

新しい生活のお祝いに妹がカードケースを作ってくれた。
とんとん金づちで皮を叩いてなめして、
目打ちで穴を空けて、縫っていく、ほんと職人技。

大切なものはこうして出来上がっていく。

0103.jpg

これは私がクリスマスプレゼントに妹に編んであげたもの。
リクエストはヘアバンドだったのだが、
キャップにもなるようにちょっと幅を長めにしてみた。

大切なものは、
大切なひとのことを想いながら、
こうして手の中から生まれるものだ。

静かに静かに編みこまれていくものだ。
その想いや感謝や笑顔や思い出が。
「もの」が「もの」ではなくなるのは、
こんなにもあやうくてはかないのに、
永遠につづくものだ。
その「もの」がなくなっても
ずっとずっと残っていくことだ。

かたちのないものをものにそっと移して、
そしてその空気みたいなものだけ
永遠にそこに留まって、漂って、満たして、
そして成長して、変化して、
ずっと残っていくものだ。

そう思ったり感じるだけで
涙が出そうになるものだ。
posted by sleepyhead at 17:59| Comment(0) | TrackBack(0) | thoughts | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月28日

rainy days

コピーライター中島未月さんの一言より。



 晴れた日のほうが素敵には違いないけれど、
 雨の日があるから晴れた日を嬉しく思えて、
 晴れの日を知っているから、
 雨の日を過ごすことの意味を理解できる。
 
 雨は、晴れる日のために降っているのです。
 
 ・・・・・・・・・・・・
 
 
 毎日の出来事は、それが当たり前のことに
 なった瞬間から、その良さやありがたさが
 見えなくなってしまいがちだけれど。
 
 その存在の意味をプラスの方向で考えてみると
 見つけられる”いいこと”がある。
 
 
 そう考えて、
 こうできるといいなと思ったのが、
 ”イヤなものプラス思考”。
 
 
 自分では気持ちをどうにも改善しづらい
 いやな事、嫌いなものを、
 ただ、いやだ、嫌いだと思うよりは
 それがあるから好きなものを
 より好きになれる、と思ってみる。
 
 
 少しでも自分にプラスになる
 嫌い方をしたほうがいいじゃないか、
 という発想です。
 
 
 雨が大地を潤すように、
 私たちの心に降る雨も
 心の大地を潤してくれますように。
 


雨の日にはどどーんと頭が痛くなっちゃって
そして雨の日はやっぱり苦手で
毎日が晴れだったらいいなと思う私だけれど、
人生が楽しいことも悲しいことがあるわけが
ちょっと分かる気がした。

でもそれでも私はいつも笑ってたい。
雨の日にも
晴れの日にも。
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2006年03月24日

シアワセの条件

これは私の知り合いの方のご友人の言葉(つまりほぼ他人)。

「自分が幸せになることを無意識に禁止している人は、幸せな他人の足を
引っ張ってしまう。自分の幸せを禁止して、他人の幸せを無理して願うと
自分の心が苦しくなってしまう。
だから、自分が幸せになること。それが、周りの人のためにもなる。」

posted by sleepyhead at 09:34| Comment(2) | TrackBack(0) | thoughts | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月18日

今の自分に何点をつけますか?

購読中のメールマガジン、心理カウンセラー望月さんの今日の言葉。


あなたも、私も程度の差はあれども、「本気で自分を変えよう」と今までに色々なことを試してきたのではないでしょうか?

けれど、いずれも失敗し、水泡に帰してしまったのでは?

 
なぜなら、変えられないもの、そのまま認めなければならないことを変えようとしたからです。

 
あなたも私もこの世に誕生したとき、「そのままの自分」で100点満点なのです。


100%肯定されてきた「子供」だったのです。


そして、それは今現在も変わらないものなのです。


今、自分がどんな生き方をしていようとも、過去がどうであれ、そのままの自分が100点満点、100%自分を肯定する。


その自分の原点に戻って自分を変えようとしない。


「そのままの自分でいいのだ!」とはらをすえること。


そうすれば、脳と体という先天的な領域と(ハード)、意識、潜在意識という後天的な領域(ソフト)が、はっきりと二つの領域に分かれ、それぞれの役割を最高の状態で遂行できるようになるのです。


得に良いことは先天的な脳と体(ハード)は、後天的は意識と潜在意識(ソフト)を通じてくる外部からの影響を一切受けることなく護られるのです。


そして、ストレスが無くなるからホルモンなど体内分泌も活発になって、人間本来の健康そのものになっていくのです。


自分にとって一番怖いことは、自分が他人の目で、 
自分の欠点を責めたてて 自分の存在を否定すること。


自分にとって自分は自分の安住地でなければならない。



人は成長を続けながら変化していく生き物ですから、その成長に伴って、ものを見る目、見る対象も変わっていきます。


ですから、自分を責め立てて変えようとすれば、自分が思うことと逆効果になるのは当然の結果です。


悪い自分も、良い自分も、しょせん自分なのですから「素直」に受け入れることが必要ではないでしょうか?


受け入れることから成長が始まり、本当の変化、理想の変化がでてくるものと私は思っています。



もっともだなとは思うけど、これがなかなか難しい。
自分のこと、こんなはずじゃない、なんて、奢っている馬鹿者にはなかなか越えられない壁。
posted by sleepyhead at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | thoughts | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月17日

ケンタロウさんにちょっと涙

yahooの企画で、ケンタロウさんが家族でごはんについて語っていて、そうだなーって素直に共感したので、以下引用。


家族みんなで一緒にごはんを食べることが何よりも大切なこと、と、簡単に言うつもりはぜんぜんまったくない。

そりゃもちろん大事なことだし大切にしたいことだし、そうできれば最高に素晴らしいと思うけれど、でも、実際にはそれぞれにいろんな事情があって、必ずしもだれもがかんたんに家族みんなでごはんが食べられるわけじゃないと思うから。

少しだけ無理すればみんなで一緒に食べられる人もいるかもしれないし、どんなに頑張ってもなかなか一緒に食べられないぜ、もどかしいぜ、と思っている人だっていると思う。

だから、簡単には「家族でごはんこそ何より大事」とはとても言えないけれど、慎重に考えた上で、あえて、家族でごはんは大事だと思う、と言いたい。

それは何も毎日毎日、あの手この手で愛情も手間暇もたっぷりかかった料理をみんなで食べるのがいい、ということじゃない。

5分で作ったものだって、外食だって、家族とのごはんは大事だ。
いちばん身近で気を遣わなくて、もしかしたら会話すらロクになくても、おいしいものを一緒に食べてその場に一緒にいるだけで、家族のごはんは意味があると思う。

毎日顔を合わせている家族なのに、おいしいものを食べた途端に急に和やかに穏やかに会話や笑い声が生まれる、なんて、そんなあっさり美しい展開になるほど人生甘くないかもしれないけれど、でも、もしも、ちょっとでも、おいしくってついつい家族がいい顔になったりしたら、それでじゅうぶん。みんなおいしければみんな幸せ。

家族でごはんは大切なこと。そんなことだれもがわかっているし、わかっていてもなかなかできないことだってあるし、会話が弾むばかりじゃないけれど、ふだんバラバラのみんなが、せめてごはんの時だけでも一緒にいられたらいいなと思う。
posted by sleepyhead at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | thoughts | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月16日

独り言

最近4月から再上京計画への意欲がもっぱら下降中。

まあ、それならそれでもいいかーとなり、ここも居心地悪くないしなーとなってきた。

移動するのがしんどいというか、面倒。

犬もいるしなー。
マッサージチェアもあるしなー。
トマトやキャベツが美味しいしなー。

まったく不順な動機だな。
posted by sleepyhead at 10:53| Comment(2) | TrackBack(0) | thoughts | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月28日

読書の流動性について

昔読んだ本を読み返していると、まったく違った読み方あるいは、意味のとり方をしていることに気が付くことがある。書かれている物語は変化せず、そこに半永久的に在るはずものなのに、読み手はこんなに不確かで危うい存在なのだと知る。そしておそらく筆者も、少なからずとも、なぜあの時あのようなものを書いたのか、と思いに沈むこともあるのだろう。では、書物はいったいどこに所属するものなんだろうか、時代でもなく、読者にでもなく、きっと筆者ですらない。だれかがゆっていたな、本は筆者が書いて印刷された瞬間からもはやその人の所有物ではないのだと。時代でないのは確かなことだ。たとえ、その物語はそのご時勢を大いに反映して書かれたものであっても、そこからどのように意味を汲み取るかなんて、まったく自由だし、あいまいなのだ。ぐるぐるぐるぐる、時代によって、読み手によって、天気によって、その日の運勢によって(例えばそれがあるのだとすれば)、変化して古くなり、新しくなっていく。すくなくとも私にとってはそういうものだ。

だから本というのは所有したくなるし、買いたくなる。ずっと手元においておきたくなる。だからあえて、というか、十分に本に使いたいだけお金が使えないときは、新刊は買わずに読んでみる。気に入ったら買う。自分にとって大事なものだけを、響いてきたものだけを取っておきたいと思うようにある。小説だけではないなあ。料理本だって、いやっていうくらい中身を吟味してから買う。わくわくして新しいものが出たから飛び込むという勇気はあんまり出ない。そういう本との出逢い方もさぞかし素敵だろうと思うけれど、今はまだ出来ない気がする。しかし、自分にとって大事なものだけ、というのもなんだか傲慢な言い方かもしれないな。私は当然プロフェッショナルな本の解釈の仕方や読み方というものも身につけてはいないし、今後もそのようなプランはないから。でも、必ずしもそんなんじゃなくても、私みたいにすごく受身で、「この感じ好きだー」とか、「うーんいまいちよく分からなかったなあ」っていうシロウトな読者も無視されないことを願いたいものだ。

だから、何かしらの理由で本を捨てなくてはならなくなると、それはそれは切ない思いがする。特に今後悔してもしきれないのが、ずっと大好きで読み続けた絵本たち。はじめの引越しの際、捨てなくてはいけなかった。もちろん捨てなくてはいけない理由など微塵も存在しなかったのだが、やっぱりもう読まないし(とそのときは本当に愚か者だがそう思った)、何かと場所をとって部屋も狭くなるし、などというしょうもない理由だったと思う。とにかく、まったく気に留めなかったということだ。しかし、今になって、それが自分が実際に自分の子どもを持てるというまったく驚くべき年齢になったからという理由からだけでなく、今でも自分のなかに残っているもの、輝いていたストーリーやキャラクターが生き続けているということにようやく気がついて、そう思うのだ。しかし後悔は先にたたない。未来に向かって、自分のために、大切にしていた絵本たちをまたちょっとずつ集めていこうと思う。そして、それが将来自分ではない、誰かのために、自分の大切な誰かのために役立つ日がきたら、どんなに素敵なことだろうと思う。
posted by sleepyhead at 23:02| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | thoughts | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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